シルクロードの旅―5


8月23日(木)ドゥシャンベ


AM5:30、起床。スコットとアビーが居ない!ポメラ。

AM7:30、朝食。昨日と似たようなメニュー。4人の腹痛が続いている。ポメラ。


AM11:00、町へ散策に出る。ガイドブックを読んでも行ってみたくなる所が無いので、町はずれの川を目指す。アイニ(ソ連時代のタジキ共和国大統領)像が建っているアイニ広場まで来ると、書店らしきものがあったので覗いてみた。


アイニ像(タジキスタン・ドゥシャンベ)


そこは、一軒の間口が2m程の小さな店が数十件も並んでいる、市場のような所である。しかも、どの店にも文房具を中心とした同じ様な品揃えなのだ。しかし、良く見ると少しずつ異なる品が置いてある。私は此処でタジキスタンの地図を購入した。30ソムニ。


次にドゥシャンベのメイン通りである、ルダーキー(サマン朝の詩人)大通りを歩いて行く。広い通りは並木道になっており、一定の間隔でベンチが置かれている。此処では通行人が、一休みしたり、お喋りしたりしている。少し注目してみると、色とりどりのタジキスタンの民族衣装を着た女性を、観察することが出来る。


ルダーキー公園まで来ると、入り口に、大きなイスモイル・ソモニ9世紀頃、アラブ人を駆逐し、中央アジアでサマン朝を創設した)記念碑が建っている。しかし、何の説明書きも見あたらず、初めて目にする私には、その名前や由来は全く分からなかった。ファンタ、アイスクリーム。5ソムニ。


        

イスモイル・ソモニ記念碑(ドゥシャンベ)


公園の中に入っていくと、タジキスタン・紋章記念碑が建っているが、説明書きが無い事は同じである。要するに、突貫工事で、公園の形は造りました、中身の充実はこれからです、と言う印象である。そこに植えられている木の花も、造花であった。

ルダーキー公園(タジキスタン・ドゥシャンベ)


タジキスタン・紋章記念碑(ドゥシャンベ)

此処まで歩いてくると、疲れを感じたので、引き返そうかと思ったが、当初の目標を思い出し、ヴァルゾブ川まで歩くことにした。行ってみると、その川はゴミが流れて来る汚い川で、微かながら悪臭さえ放っている。そんな川でも、少年たちが泳いでいた。


ヴァルゾブ川(タジキスタン・ドゥシャンベ)


ソ連の崩壊後、5年間も内戦が続き、全てが破壊されてきた。今はやっと政情が安定し、再建に取り組み始めたところである。従って、インフラの整備から始めなければならないが、国家予算に余裕が有るわけではなく、それもまま成らないのが実状であろう。


山岳と峡谷から成るパミール・ハイウェイの整備は、中途半端なことをしても、直ぐに雪崩や、崖崩れで元の木阿弥に成って仕舞う。従って、日本の高速道路のように、トンネルを掘り、橋を架けて本格的に整備しようとすれば、膨大な予算が必要である。まだ、この国にはそこまでの経済的余裕は無さそうだ。


AM12:30、公園の出口近くに有った食堂で、昼食を取った。大きな食堂で、近所の人は皆、此処で食べているようだ。水餃子風の蒸した物、サラダ、パン、ジュース。6ソムニ。100円位か。安い!


PM2:00ルダーキー大通りを戻る途中でベンチに座っていると、いつの間にか居眠りをしていた。疲れていたのと、そこの居心地が良かったのであろう。私は、此処でも行き交うタジキスタン女性の、カラフルな民族衣装を楽しんでいた。


PM3:00、ホステルに帰着。シャワーを浴びて、ポメラタイム。

PM7:00、夕食。ラーメン、ソーセージ、メロン。

PM8:00、ポメラタイム。此処のホステルに3連泊したお陰で、日記の書き遅れを、大分取り戻してきた。


PM10:00、就寝。


8月24日(金)ドゥシャンベ〜イスカンダル


AM6:00、起床。

AM7:00、朝食。暖かい焼きたてのパン(ホステルの直ぐ近くで焼いている)、目玉焼き2個。


AM8:00、ツアー仲間の内、8人だけがトラック・バスに乗って出発。5人は別ルートで移動し、夕食に合流する。他の3人の内、セブギは、タシケントに寄りたいと、タシケントへのフライトを選択。ロバートは、トラック・バスでの移動はおしまいにしたいと、サマルカンドへのフライトを選択。


テリーは、ウズベキスタンのビザを取得してから、追いかけて来る。16人の内訳は、以上の通り。河津君が別れの挨拶に来てくれた。トラック・バスの中に入ってきて「楽しそうですね。自分も、このトラック・バスに乗って行きたいな」と言っていた。


AM9:00、出発から1時間も走ると、再び山岳地帯に入ってきた。本当に、タジキスタンは「山岳国家」であることを感じる。

山岳地帯(ドゥシャンベ〜イスカンダル)

AM11:10、1つの峰を越えてきた所で、トイレ休憩。此処から山を見上げると、山の斜面から煙が登っていた。この山は活火山なのであろうか?

山の斜面から煙(ドゥシャンベ〜イスカンダル)


AM11:30、今日と明日のキャンプに備えて、買い物停車。私は、オニオンのピクルスを1瓶買った。20ソムニ。

PM1:052つ目の峠を越えると、エメラルドグリーンの湖と、川が見えてきた。


2つ目の峠(ドゥシャンベ〜イスカンダル)

エメラルドグリーンの湖と川(イスカンダル)


PM2:00、キャンプ場に到着。イスカンダルと言う谷間の湖畔である。スピードの出ないトラック・バスではあるが、ドゥシャンベを出発してから6時間掛かっている。標高2200mの此処は、全く俗化されていない別天地と言ってよく、散策に、湖水浴に、ノンビリ過ごすには、またとないところだと感じた。


イスカンダル湖畔のトラック・バス


イスカンダル湖畔でのキャンプ


イスカンダル湖畔での家族


但し、首都のドゥシャンベから片道6時間と、2つの峠越えをしなければならず、誰でもが簡単に来られる所ではない。


PM2:20、昼食。ラーメン、バナナ、ソーセージ、キュウリのピクルス。食後テント張り。


PM3:00、夕食の下ごしらえを始める。今日は、フーゴと私が夕食の担当である。運転手のジョノの指導の元、バーベキューの準備をする。


ビスケットを砕いて粉にし、牛肉のミンチと混ぜてこね、ハンバーグを作る。大きめのジャガイモを15個洗って、十文字に切れ目を入れ、銀紙で包む。トマトなどの野菜を刻み、サラダを作る。フランクフルト・ソーセージを人数分用意する。大きなチーズの固まりを、ボールに一杯削る。


PM5:30、夕食の準備終了。

PM6:30、バーベキュー用の炭火コンロに火を入れ、料理を開始する。炭に火が回った時点で、銀紙に巻いたジャガイモを火の中に投入。ジャガイモが焼けたら、炭の中から取り出し、網の上で、フランクフルトを焼く。最後にハンバーグを焼く。


PM7:30、別行動で移動していた5人が合流してきた。

PM8:00、ベジタリアンのハンバーグも慎重に焼いて、夕食開始。私のハンバーグは、ウエルダンに焼いた。全体に好評な出来映えでした。


PM9:00、食事の後片づけをした後、キャンプファイヤーに合流。建物の中では民族音楽が演奏されていた。ソ連のモスクワ・テレビが取材に来ていて、撮影していたが、このような憩いのあり方は珍しいのかしら。

ソ連のモスクワ・テレビ(イスカンダル湖畔)


民族音楽の演奏(イスカンダル湖畔)


PM10:00、就寝。


8月25日(土)イスカンダル湖畔


AM6:00、起床。夕べは寒かった。ウィンドブレーカーまで着て寝たのだが、冬用の下着を着なかったのが、甘かった。ポメラ。


AM7:00、朝食の準備。ジョノが、ポテトを薄切りにして炒め、最後にチーズを加えた1品と、フランスパンを2Cm幅に切ったものに、溶かした卵を付けてフライパンで焼いたフレンチトーストを1品作った。慣れていると見えて、手際よく作るものだ。


AM8:00、朝食。上記の2品とメロン、コーヒー。今日は、此処、イスカンダル湖畔で、1日フリータイムとあって、ユックリ寝ているのであろうか、朝食に来ない人が多い。


AM8:30、ポメラ。

AM9:30、ツアーが始まってから2回目の大掃除。トラック・バスに乗っている物を、全部外に出して、トラック・バスの中をモップで掃除し、食器や調理用具を洗う。1日走れば、また砂埃を被って、元の木阿弥になるのだが、やらないよりは増しだ。


AM12:30、昼食。バナナ、ジャガイモ、キュウリのピクルス。


PM1:40、ミシェルと湖畔の散策に出かける。散策中、派手に飾った結婚式用の乗用車、数台とすれ違った。それ以外は、行き交う人も無く、湖畔はどこまでも静かであった。


イスカンダル湖畔@


イスカンダル湖畔A


PM2:40、ポメラ。昼寝。

PM6:30、夕食。マカロニ、サラダとマシュルーム。マカロニは、硬いよりは良いが、少し茹で過ぎか?お味はマズマズでした。


明日の、ウズベキスタンへの入国に当たり、リーダーのニンカから諸注意があった。持ち込み禁止の薬物、特に抗生物質に注意するように。現金の持ち込み額は、正確に申告するようにと。


その際、ビザの話になったのだが、日本人の私以外は、全員がビザを必要としていた。インターネットで調べたときは、「一定の条件の下で、日本人はビザが免除される」と書いてあったと思う。今更ジタバタしても仕方がないが、一抹の不安が残った。


PM8:30、就寝。私が寒がりであることを知ったニンカが、「オランダ人のディディが、リタイアする時に置いていった寝袋があるから、2枚重ねて使ってみたら?」と言う。私は、有り難く拝借することにした。


8月26日(日)サマルカンド


AM3:30、昨夜の就寝時間が早かったこともあり、随分早く目が覚めた。昨夜、拝借したディディの寝袋は、マットの上に敷いて寝た。幾らか暖かかったように思う。

今日の、ウズベキスタンへの入国に当たり、申告すべき現金の額を確認する。このツアーが始まってからは、案外使ってないと思う。


AM6:00、朝食。豆とか、良く分からない色々な物を混ぜて、フライパンで暖めたもの。一見したところ、鳥の餌かと思うような代物である。暖かいから食べられるが、冷たくなったら無理だろうと思う。


AM7:00、出発。朝食を取らないジョアンナは、キャンプの撤収にも参加せず、出発直前になってお出ましになる。その間、念入りに、お化粧でもしているのであろうか?


AM9:00、2時間を掛けて、一昨日、渡ってきた橋まで戻ってきた。此処から新たな道に入り、国境に向かうのだ。

AM9:15、トイレ休憩。久しぶりに建物内で用を足すことが出来たが、入り口で一人当たり、1ソムニを要求された。今日もアビーの足は、信頼するスコットの膝の上でリラックスしている。

アビーの足


AM1250、国境に到着。待機中に米ドルからウズベキスタン・ソムに両替。60ドルが469,200ソムになった。概算で、1ドル=110円=7800ソムとすると、1円=70ソムになる。貨幣単位に馴染むまでは、とっさの支払いで、それが妥当な金額なのか、判断するのに戸惑う。


PM4:00、出発。タジキスタン側と、ウズベキスタン側のチェックを無事に終えて、我々は出発した。当初心配していた、薬物の検査とか、現金の申告とかは、何もなかった。ただ、運転手のジョノだけが、長時間、事務所内で缶詰になっていた。


これに対し、個人の車で入国する人は、ドアやボンネットを開けられ、麻薬探知犬に捜査されていた。ビザの件も、ツアーグループの中では、私だけが取得していなかったので、一抹の不安を抱いていたが、何事もなく入国できた。


ただ、一人の係官に、ビザのことを聞かれたので「我々日本人は、ビザが不要になっています」と答える場面があった。係官でも知らない人が居るのかしら?


PM5:30サマルカンドのホテルに到着。カミラ・ホテルと書いてある。4人1部屋だから、値段は抑えていると思うが、各室にシャワーとトイレが付いているのは有り難い。ウズベキスタンは、法律により、キャンプは出来ないそうだ。


カミラ・ホテル(サマルカンド)


PM7:00、今日は、キャメロンの34歳の誕生日と言うことで、ビヤガーデンでパーティーをすることになった。3台のタクシーに分乗して、会場に行ってみるとクローズド、閉店であった。近くのパブに変更しての開催になった。


ニンカが用意したバースデー・ケーキの蝋燭消しから始まり、和やかにパーティーは終了した。私は、ピザ、スープ、コーラを注文して、55,000ソム、約800円。タクシー代が割り勘で、8000ソム、約120円。


PM11:00、シャワーを浴びて、就寝。


8月27日(月)サマルカンド


AM6:00、起床。日記を家族に送信。

AM7:30、朝食。パンケーキ、パン、目玉焼き2個、コーヒー。野菜や果物が欲しかった。


AM8:30、同室の、私、セブギ、ミシェル、フーゴとニキータ、アダム夫妻の6人で、市内見学へ。市内には有名なモスクや歴史的な学校が数多くあり、その内の3カ所を見学した。


1、アミール・ティムール(グル・アミール)廟

ティムール一族が眠っている。グル・アミールとは、タジク語で「支配者の墓」という意味。




支配者の墓(サマルカンド)


2、ルハバッド廟

グル・アミール廟の北側に立つ14世紀後半の廟。ルハバッドとは、「霊の住みか」という意味で、神秘主義者サガルジを祭ったもの。中に入ると地下室があり、そこに葬られて居るようだ。

ルハバッド廟(サマルカンド)


3、レギスタン広場

此処には3つのメドレセ(神学校)があり、それらが生み出す調和は見事である。サマルカンドのシンボルになっており、多くの観光客を集めている。今日は此処で、団体の日本人観光客に出会った。やはり、ビザが不要になり、訪問しやすくなったのであろう。

正面:ティラカリ・メドレセ ――― 1660年建築

左側:ウルグベク・メドレセ ――― 1420年建築

右側:シェルドル・メドレセ ――― 1636年建築


レギスタン広場(サマルカンド)


イスラーム教徒のセブギは、今日の見学に際して生き生きしている。積極的に歩き回り、メドレセの屋上にも上がった。とても数日前まで、具合が悪かった人とは思えない行動力である。


いずれのモスク、メドレセも歴史的な建造物であり、壮麗さを訴えてくるが、中に入るとそこは、土産物屋のオンパレードで、何処の店にも、ラクダ、カシミヤ、シルク等の織物や人形等、同じ様な物が売られていた。ただ、メドレセの一角には、アラビア文字の表札を、その場で書いて、販売しているおやじが居た。


アラビア文字の表札(サマルカンド)


PM1:00、見学に疲れて、ホテルへ帰着。昼食。具だくさんのパン、6000ソム。キュウリのピクルス。


PM3:00、昼寝。

PM4:30、ポメラタイム。


PM7:30、夕食。串焼き、スープ、サラダ、お茶。35,000ソム。ふらりと入った食堂で、日本人の男子青年二人の会話が聞こえてきた。挨拶し、同じテーブルで会話に加わった。二人は「昨日、タシケントで知り合い、タクシーに乗って、先ほどこのサマルカンドに着いたばかりです」と言う。


一人の青年は、国士舘大学生のA君。柏市在住、夏休みの2ヶ月を今回の旅行に当てている。「私も高校生までは柏に居ました」と言うと、共通の話題に花が咲いた。


もう一人の青年B君は、団体職員。2週間の休暇を取って来ている。彼は学生時代アラビア語を勉強し、本田孝一先生の一番弟子であったと言う。8回も幾つかのアラブの大学に留学を試みたが、その都度、諸事情が発生して、成功しなかった。


卒業後、商社に就職したが、希望の海外勤務が叶えられず、国内勤務に回された。休暇も取りにくかったので、転職した。私が、「本田先生の授業(アラビア書道とアラビア語)を、アラブ・イスラーム学院で、何度か受講しました」と言うと、暫くは本田先生の話になった。


本田先生は、東京外国語大学を卒業後、知人の誘いで、サウジアラビア語の通訳として、地図の作製に携わった。しかし、現地で測量の仕事に就いてみると、言葉が全く通じず、日本に帰れと言われた、と言う話等、共通の話題で盛り上がった。彼はこれまでに、アラビア語圏の国を何カ国か旅行している。予期せぬ出会いで、楽しい食事が出来た。


PM10:30、シャワーを浴びて、就寝。


8月28日(火)サマルカンド


AM6:30、起床。ミシェルが、ボーイフレンドの待つタイに向けて出発。二言目には、「マイ・ボーイフレンド」と言っていたが、遂に対面の日が来たのだ。タイの後は日本に2週間の予定で来訪するが、その時、私はまだシルクロードを旅行中である。


日本訪問に当たり、幾つかのアドバイスはしたが、いい思い出になるように期待したい。彼女は、日本訪問を、2年前から待ち望んでいたそうだ。


シルクロードを旅行中、中央アジアの国々において、私が日本人だと分かると、急に笑顔になって、親しみを現してくる人が少なくない。勿論、悪い気分はしないが、それだけ日本に憧れを持っている人が多いと言うことは、その期待を裏切らないことが、より強く求められるということでもある。


AM7:30、朝食。昨日と同じメニューだ。ただ、小さな葡萄が出されていたので一粒摘んでみた。これが甘くて美味しかった。日本にいたら、こんなに小さな葡萄を口にすることは無いと思う。粒は小さいが、皮ごと食べられるし、種もないので、6〜7粒口に入れれば、面倒でもない。皿に出されていた葡萄は、全部胃の中に収まってしまった。


AM8:00、ポメラタイム。

ホテルの中庭(サマルカンド)


AM9:30、市内見学に出かける。まず、近くの「ショブ・バザール」へ。野菜、果物、衣類、スパイス等。それぞれの縄張りの範囲で、懸命の声掛けである。私は、各種のスパイスを扱う店で、胡椒が目に入った。妻がよく「美味しい胡椒が欲しい」と言うのを聞いているからだ。


胡椒を取り扱っている店が数店あった。どこの店も似たり寄ったりの胡椒であったが、丁度欲しい分量を袋に入れて売っていた店で、値段の交渉をした。最初5ドルと言っていたのが、3ドルまで下がった。そこで手を打って購入。妻が喜んでくれると良いのだが。


ショブ・バザール@(サマルカンド)


ショブ・バザールA(サマルカンド)


次に捕まったのが、ウズベキスタンの帽子店。私の頭に丁度良い大きさの物がなかなか出てこない。おやじは、大きめの帽子を取りだして、更にそれを伸ばして広げている。これでどうだと被せられ、鏡を見せられた。


特に格好良いわけではないが、記念に買っておきたい気持ちになり、値段の交渉に。最初、10ドルから始まって、7ドルまで下がったところで手を打った。この帽子を被って楽しむ事ができれば、安いものだ。


次に、果物屋で美味しそうな物を1個ずつ4種類選んだ。リンゴ、みかん、西洋なし、ピーチ。15000ソム。果たしてお味の方は如何に?


バザールを通り抜けたところに現れたのが、「ビビハニム・モスク」。かつてイスラーム世界で最大の規模を誇ったモスクである。「ビビハニム」とは、ティムールの妃の名前であり、このモスクについては、幾つかの伝説が残っている。入場料22000ソム。また、道路の向かい側には、「ビビハニム廟」が立っている。


ビビハニム・モスク(サマルカンド)

ビビハニム廟(サマルカンド)


ビビハニム・モスクから北側へ少し丘を登ったところにハズラティ・ヒズル・モスクがある。最初はゾロアスター教寺院であったが、アラブの侵略後、8世紀初めに最初のモスクが建てられた。その後モンゴル軍によって破壊されるが、19世紀にブハラのハンによって再建された。

ハズラティ・ヒズル・モスク(サマルカンド)


AM11:30、歩き疲れたので、ホテルへ帰ることに。途中のパン屋さんで、菓子パンを1袋購入。3500ソム。


AM12:00、ホテルの中庭で、居合わせたスコットと昼食。菓子パン、果物、ピクルス。そこに寄ってきた、タジキスタン青年が、「僕の彼女は韓国人だけど、日本語が上手ですよ」と言う。


その彼女が現れて、話してみると確かに上手でした。過去に1年間、京都の立命館大学に留学しており、この秋から2度目の留学をすると言う。ほとんど癖のない日本語はお見事。


タジキスタンの青年とは中国語の勉強で、中国にいたときに知り合っており、二人の会話は、中国語だと言う。将来彼女は、日本に住みたいと言っているが、彼氏との間はどうなるのかしら?神のみぞ知る!


PM1:00、昼寝。

PM3:00、散歩へ。ウズベキスタンの音楽CDを2枚購入。10000ソム。楽しめると良いのだが。


PM4:20、ポメラタイム。

PM7:00、夕食。何とか羊の串焼きを食べたいと、町に出かけるが、なかなか見あたらない。それらしい絵が掲げてある店を探し、覗いてみた。外から見ると比較的大きなレストランで、綺麗な作りだったので、少しは期待したのだが、結果は希に見るハズレの店でした。


まず英語が全く通じない。羊と牛、マトンとビーフの区別も付かない。そんなやり取りをしながら、展示ケースを覗くと、羊の肉らしいのが串に刺してあった。一か八か、それを注文し、席に座ろうとした。


すると、椅子の前足が外れて、大きく傾き、私は尻餅をつきそうになった。「こんな事ってあり得るか?幾ら安普請でも、其れは無いだろう!」と、怒りさえこみ上げてきたが、ウエートレスが、言葉が通じないのに、一生懸命コミュニケーションを図ろうとしているのに免じて、キャンセルして店を出ることは思いとどまった。


その後、スープを頼んでも無いと言うし、出てきたサラダをつつきながら、殆ど意に添わないまま待つこと数十分。15卓ほどの広いレストランに、客は私一人であった。やっと出てきたのは、確かに羊の串焼きではあった。


しかし、大きな骨と、脂身とで、食べられるところは殆どなし。しかも、肉の中の方は、生焼け状態で赤かった。私は、この旅に出て、最悪の食事を経験することになってしまった。串焼きの食べられそうな所だけをかじり、早々に勘定を済ませた。21000ソル。


私のお腹は、まだ満たされてなかったので、通りすがりのファストフード店に入った。写真を見て、羊肉を挟んでいそうな物を注文した。待てど暮らせど私の注文した物が出てこない。後から来た人が、先に食べている。注文を受けた女性も、ちょっと変だなと言う顔をしている。


やっと出てきた品を見ると、私が注文したものと違う!この場に及んでは、「注文したものと、物が違う!」と言うだけの気力も失せていた。私は、半分ほど食べて、店を出てきた。13000ソム。今夜は完敗の夕食でした。


PM9:00、帰着。シャワー、就寝。


8月29日(水)サマルカンド〜ブハラ


AM6:00、起床。

AM7:00、朝食。運転手のジョノに聞いた。「ウズベキスタンに入国するとき(826日)、3時間もイミグレーション事務所に缶詰になっていたけど、何をしていたのか?」と。


ジョノの曰く「大統領が変わって、法律が新しくなったようで、このトラック・バスは、どのランクに該当するか、入国税は幾らになるか等を、いちいち問い合わせていたんだよ。個人の車には入国税は掛からないが、会社の車には、入国税が掛かるのさ」と言うことであった。日本人のビザが不要になったのも、案外、大統領の交代が影響しているかも知れない。


AM8:0013人で出発。今日から更に3人減少。ミシェルは予定通り、ボーイフレンドの元へ。70歳のロバートは、体調に不安を感じてタイランドに帰国。その友人のテリーは、ビザが整わず、ウズベキスタンに入国できないでいる。と、理由は様々である。


AM10:15、トイレ休憩。用を足した後、一人当たり1000ソムの徴収。


AM11:35、昼食。羊の串焼きをやっていたので、それを2本と、スープを注文。美味しく焼けていました。これで、昨夜の敵を取ったような気分になりました!20000ソム。


AM12:10、出発。

PM3:00ブハラのグランド・ノディルベック・ホテル着。「歩き方」には、「ラビハウズの近くにあるB&B。南国風とブハラ風をミックスしたような雰囲気だが、設備のわりに高い」と紹介されている。私たちは4人部屋だから、一人当りUS$20位か?

ホテルにチェック・イン(ブハラ)


PM4:00、ポメラ。

PM6:30、散策に出かける。ホテルの目の前に、ブハラの中心地をなす、オアシスの池、「ラビハウズ」があり、立地条件としては最高の場所に宿泊することになった。昼間から人々が集って、散策したり、木陰で休んだりしているが、夜ともなると、池の周りに野外レストランが開設され、思い思いの料理を楽しむことになる。


ラビハウズ@(ブハラ)


ラビハウズA(ブハラ)


私がそこを歩いていると、丁度、新郎新婦の撮影会が行われている最中であった。新郎の兄が私に声を掛けてきて、撮影の中に入ってくれと言う。私はお言葉に甘えて、新郎新婦と記念の写真に収まった。


       
           
新郎新婦と(ブハラ)

此処ブハラの町は、東西3km、南北2kmの範囲にすっぽり収まってしまうほどの、小さなオアシス町に、幾つものモスクや、マドラス(神学校)等の歴史的建造物がひしめいている。


勿論それらは歴史を語るには、なくてはならないものであるが、私が驚いたのは、それらではない。バザールの一角で、刺繍をしている女性が居たので、どんな物を作っているのか近寄ってみた。


すると日本語で挨拶された。日本語は挨拶だけだろうと思っていると、そうではなかった。私は、好奇心に刈られ、色々聞いてみた。


彼女は「17歳、薬学を学ぶ高校2年生、高校を卒業したら、医学部に入学し、産婦人科医になりたい。日本語は、漢字に興味があって、そこから日本語の勉強を始めました。最近は日本人の観光客も増えてきましたし、日本語を使うチャンスは多くなりました。


日本のアニメのことは知っていますが、あまり興味はなく、見たことはありません。姉も日本語を話します。英語はもっと小さい頃からやっているので、語学に対する抵抗感は全くありません。趣味のようなものです」という。




私のように、受験勉強として取り組み、抵抗感だらけの者にとっては、信じられないような話である。私が、宿泊先を言うと「そのホテルの息子は、小学校の時の同級生です」と言う。小さな町なのである。

PM8:00、ホテルへ帰着。シャワーを浴びて、ポメラ。

PM10:00、就寝。


8月30日(木)ブハラ


AM6:00、起床。

AM7:30、朝食。美味しく食べることの出来る品揃えだ。パン、ジャム、ソーセージ、チーズ、ビスケット、ケーキ、茶、目玉焼き、キヌア、葡萄、すいか、メロン。少しずつではあるが、沢山の種類が出されて、楽しめた。

朝食(ブハラ)


ジョノの話。この国ではディーゼル燃料を売っている店が少なくて困っている。昨日も此処、ブハラに来る途中、何度もガソリンスタンドに立ち寄っては、断られていた。何処で、どうやって手に入れるのであろうか?


AM9:00、特に目的も定めないまま外出。ラビハウズを歩いていると、白タクシーに呼び止められた。そう言えば、日本人墓地に行きたいが、受付の女の子に聞いても、「調べてみたが、分からない」と言うだけで、話が進んでいなかった。

ラビハウズB(ブハラ)


タクシーの運転手に、此処へ行きたいのだが、と言って「歩き方」の写真とキリル文字で書かれた「日本人大墓地」を見せると、どこかに電話をしていた。そして往復10ドルで話が付い
た。

運転手も其れが何処にあるか分かっていたわけではなく、途中で何度も、日本人墓地の在処を尋ねていた。しかし、結果は無事日本人墓地にたどり着く事が出来た。


「歩き方」にも、「分かりにくいので、地元の人に訪ねながら行こう」と書いてあるが、地元の言葉が話せなければ訪ねることも出来ない。私は、行きがかり上、白タクシーの運転手に頼ってみたが、結果は、良かったと思う。


日本人墓地まで行くと、60代位の墓守のおばさんが、「よくいらっしゃいました」と言う風情で、案内してくれた。ロシア人、ドイツ人の墓もあり、日本人の墓は一番奥にあった。


しかし、アルマティの日本人墓地に比べると、余程管理がしっかりされていて、気持ちの良い墓参りが出来た。アルマティでは、墓地の入り口までは簡単に行けたが、そこからが大変だった。しかし此処は、入り口までが大変だったが、そこからは簡単で、
タクシーに乗ったまま行けた。

此処には159人が埋葬されているが、墓石には1から159迄の番号が振られており、別に立てられた銘版には、1から159番までの所に個人名が書かれていた。


キリル文字ではあるが、キリル文字のアルファベットさえ読めれば、日本文字に転換できる。つまり、この墓に誰が眠っているのかが特定できるのである。その点に於いて、アルマティの日本人墓地とは雲泥の差があると感じた。

銘版@(ブハラの日本人墓地)

銘版A(ブハラの日本人墓地)

銘版B(ブハラの日本人墓地)

銘版C(ブハラの日本人墓地)

入り口に立てられた合同の墓石に刻まれた文字は、風化して読みにくくなっていた。数枚の写真をカメラに収め、墓守のおばさんと記念写真を撮った。私はブハラに来て、やるべき事をやり終えたような安堵感に浸りながら、タクシーで戻ってきた。

合同の墓石(ブハラ)


日本人墓地(ブハラ)


墓守のおばさんと(ブハラ)


AM10:15、「ラビハウズ」に戻ってきた私は、まだ体力も時間も残っていたので、昨日、歩き残したところを歩き始めた。ブハラの中心街は、私がオアシスの町としてイメージしていた物に一番近いような気がする。


中心に泉があり、其れを囲むように町が出来ている。今のブハラは、タクシーで30分も走る、日本人墓地の方まで広がりを見せているが、その中心街は、東西3km、南北2kmの狭いところである。


そこに古くからのモスクやマドラサが密集しており、宗教を禁止した共産主義のソ連時代にはそれらが破壊されたり、倉庫として使われていたりしていたと言う。今は次々と修復されて元の輝きを取り戻しつつある。

タキ・バザール(ブハラ)


ウルグベク・メドレセ(ブハラ)

       

カラーン・ミナレット(ブハラ)

アルク城の城壁(ブハラ)


アルク城の入り口(ブハラ)


丘の上の古いモスクの前に設えた舞台の上で、11歳の女の子が、ウズベキスタンの伝統音楽を歌っていた。私は気になって、この音楽CDを買うことは出来ないか?と近くにいた役員風の婦人に聞いてみた。

伝統音楽を歌う少女(ブハラ)


彼女は私を舞台の上で、音響を担当している男性に紹介してくれた。「USBメモリを持っていれば録音してあげられるが」と言う。残念ながら持ち合わせていなかったので、「後日、私のメールアドレスに送って貰えないか」とお願いすると、「明日送ります」と言う。親切な人で一杯のブハラの町でした。


昨日出会った、日本語話者の居る土産店に寄って、記念の物を買った。彼女が薦めてくれた、ブハラの名前が入ったカシミヤ製のショールだが、奥さんは気に入ってくれるかな?価格は秘密です。


すぐ向かい側に、伝統音楽のCDだけを売っている露天商があった。私は2、3枚買おうかとい交渉を始めたが、お兄さんの口車に乗せられて、4枚購入。20ドル。今日は気分が良いせいか、財布の紐が緩い。この中に気に入った音楽が1枚でもあれば嬉しいのだが。


ホテル近くのコンビニで、ヨーグルトと牛乳を購入。25000ソム。


AM12:10、昼食。ビスケット、ヨーグルト、牛乳、ピクルス。ポメラタイム。


PM2:30、昼寝。

PM4:00、散策へ。今回の散策は目的を持った散策である。つまり、ガイドブックに紹介されていて、まだ見学していない「チョル・ミナル」を見に行くと言う目的である。ガイドブックの地図に従って、大通りを進み、そのモスクの近くまで来たときに、その近くにいたお兄さんにモスクの場所を聞いた。


チョル・ミナル(ブハラ)


しかし、お兄さんは私に説明しあぐねて、最後は、「取りあえずこの道を真っ直ぐに行ってください」と言う。私は、言われた通りに進んだが、何処をどう曲がったらいいのか、全く見当がつかない。


立ち往生しているとそこに、諸天善神が現れました!元観光ガイドをしていたと言う、50年輩のおばさん。英語は堪能だし、私が案内しましょうと言って先導してくれた。狭い路地を右に左に、左に右に、何処まで歩けばいいのだろうと思い始めたその時、ガイドブックの写真で見たそのモスク独特の尖塔が、目に飛び込んできた。


おばさんは「それでは、行ってらっしゃい」と言って引き返していった。私は、いくら有名なところでも、こんなに細い路地を歩かなければ、行けないところがあるとは思わなかった。最初に聞いたお兄さんが、説明しあぐねていたのも、無理からぬことであった。私は記念の写真を数枚撮ってホテルへ戻った。


PM6:00、レストランに行くには少々早いかと思ったが、部屋は停電で真っ暗だし、外へ出るしかないと思い、夕食へ。観光地としては一等地に構えたと言っても良いレストランに入った。客はまだ誰もいない。


メニューを見ると、シシカバブがあった。今日は必ずしもシシカバブでなくとも良かったのだが、それを目にすると自然と引かれてしまう私になっていました。注文したのは、シシカバブ、サラダ、コーラ、パン。


サラダが最初に出され、一口食べると美味しかった。シシカバブが出て来るには時間が掛かるから、ゆっくりパンをかじり、コーラを飲んで待った。そして、いよいよ期待のシシカバブの登場!小さくはない串刺しが2本。


ちょっと多いかなと思いながらも、美味しければ食べられるだろうと思ってかぶりついた。その瞬間、期待は見事に裏切られた!しょっぱいのだ。古い肉に限って味付けが塩辛い傾向があるが、まさに
そんな感じであった。

請求書だけは、一流レストランの金額である。サービス料まで取られて、96000ソム。今日の夕食は完敗だ。シシカバブは、何処でも美味しく食べられるわけではない事を、教えられた。その専門店か、それを中心にしている店で、炭火焼きの設備を持っている所、が条件になりそうだ。


PM7:30、ホテルに帰着。ホテルの部屋が未だに停電だ。ほかの部屋は点いているのに。受付に言うと、調べに来て「工事の者が明日の朝に来るから、それまでこれで我慢して下さい」と言って、ローソクを置いて行った。ホテルに宿泊してもこれでは、キャンプ並ではないか!


PM8:00、ポメラ。ロビーの明るいところで叩いている。

PM10:00、シャワーを浴びることなく、就寝。


8月31日(金)ブハラ


AM6:00、起床。早く起きても停電では、何も出来ない。顔を洗うのが精一杯である。

AM7:30、朝食。前日と変わらず。キヌアがマッシュ・ポテトに変わったくらいだ。


AM10:30、外出。今日の目標は、バザールへ行ってリンゴを買い、適当なところがあれば、そこでランチを食べる事。歩いて30分ほどの丘の上に、巨大な市場がある。そこへ行けば、ない物はないと思われる広さである。そんな所では果物市場を捜し当てるだけでも苦労する。


全体を見て回ったが、果物市場が見当たらない。そこのスタッフに聞くと、「別の棟にあるよ」と教えてくれた。やっと捜し当てた果物市場で、リンゴ3個、バナナ1本、イチジク3個を購入。ドサクサだったので、幾ら払ったのか覚えていない。帰りがけに、具の入った揚げパン(サムサ)を2個購入。


この市場の周りは、まだ舗装されていない。従って、風が吹くと砂埃が舞い上がり、どうやって防いだらよいか、思案に暮れる。こういう時、サウジアラビアの女性のように、頭も、鼻も、口も、全部覆ってしまえば、楽だろうなと思ってしまう。


風が吹くと砂埃が舞い上がる(ブハラ)

そう考えると、彼女たちの衣装は、必ずしも宗教上の決め事ではなく、実生活に基づいた服装ではないか、と考える事が出来るのである。サウジアラビアに行って、砂嵐を経験してみるしかないか?


AM12:00、昼食。サムサ、リンゴ、イチジク、コーラ。イチジクは、日本のそれのように、瓢箪型ではなく、平べったい円形である。皮もむかずにかじってみると、大変甘く、丸ごと食べられた。


今日の昼食は、ホテルの中庭で、ジョンとスーザンのカップルと一緒に食べた。ジョンが突然、「お宅の奥さんは、あなたの言うことに従ってくれるのか?」と聞いてきた。脇からスーザンが「彼は私のボスではないから、彼に従うことは無いわ」と言う。


私は「私の妻は、従うと言うよりも、理解してくれていると言った方が良いと思う。我々二人は、互いに尊敬しあっているから」と答えた。ジョンは、どう思ったのか、「ウーン」とうなっていた。


PM2:00、相変わらず部屋に電気が灯らない。ロビーで待機しているとそこに、ニンカとジョノが通りかかったので、実状を話すと、すぐに受付と交渉してくれて、部屋を変えてもらった。今朝からの約束で、午後2時までに修理できなかったら、部屋を変える約束にはなっていたのだが。


それにしても、此処の受付は何を頼んでも、出来ない、前進しない。ただ、可愛いだけの娘さんである!


さて、キャメロンの妻、アンドレアが次の訪問国である、トルクメニスタン入国ビザを発給拒否されたと言う。トルクメニスタンのビザは、予め取得しておくことが難しく、ツアー会社のマドヴェンチュアーにお任せであった。


会社は、全員が同じ条件で申請していると思うが、何故か、アンドレアだけが拒否されたと言う。その理由を、トルクメニスタン当局は教えないし、会社にも分からないと言う。


アンドレアが、かつて、トルクメニスタンに不利なことをしたとか、犯罪歴がある人物であるなら、理由は分かりやすいのだが、そんな事は無さそうだし。本人も夫のキャメロンも、納得が行かないまま、落ち込むしかない。


そう言われれば、出発前の注意書きの中に、「トルクメニスタン入国に際し、ビザの発給を拒否されることが、無いとは言えない。その時は、会社は責任を負いかねます」と言う文章があった事を思い出した。


こんな文章に一抹の不安を感じたことは覚えているが、イチイチ不安を感じていたのでは、到底このツアーには参加できない。私は、その時はその時で対処するしかあるまいと、腹を括ったの
である。

アンドレアは、トルクメニスタンの6日間の旅程を、その前後の国に振り分けて、次の訪問国であるアゼルバイジャンに空路で入り、そこで合流することになるであろう。トルクメニスタンに行けないだけではなく、大きな追加の出費(飛行機代、ホテル代等)を強要されて気の毒ではある。


実際にはどうするのか本人に聞いてみると、「これからヒヴァまでは、我々に同行し、ヒヴァから、国内線でタシケントへ飛ぶ。そこから国際線でアゼルバイジャンのバクーへ飛び、我々の到着を待つ」と言う。イスラーム教国の中には、肌の露出が多いだけで、入国を拒否される国があると言うから、或いは、その類であったのだろうか?パスポートの写真の胸が大きく開いていたとか。


PM4:30、テリーが合流してきた。彼はウズベキスタンのビザを持っていなかった為、入国が遅れたのである。遅ればせながら合流でき、明日からまた同じトラック・バスで、旅行することになる。話によると、幾つかの行き違いが重なって、ビザが取れていなかったらしい。彼は少々のことではメゲない強靱で、ポジティブな精神の持ち主である。


彼は現役時代の仕事は公務員で、ロンドンの刑務所で、監獄の役人をしていた。定年後の年金は、定年前の給料と変わらないくらいの高額らしい。タイで若い妻を娶ったまでは良かったが、彼の母親の介護の為、タイを離れた2年間に、若妻に新しいボーイフレンドが出来たと言う。


ボーイフレンドの所へ飛んで行ったミシェルの話では、「テリーは、タイの若い妻とうまく行っていない。時々修羅場を演じている。タイの家を新築するに当たり、費用はテリーが出しているのだが、法律上、外国人は名義人にはなれないらしく、全て妻の名義になっている。離婚する際は、全てを置いてくるしかないのだ」と言う。


ロバートは、若い妻と旨く行っていると話していたが、テリーのように二人の間がこじれてくると、あらためて、国際結婚の難しさを教えられる。テリーは、「イギリスにも家を持っているので、いずれ、そこに住むようになるだろう」と言う。


PM6:00、ポメラ。

PM8:00、夕食。バナナ、ラーメン、リンゴ、ヨーグルト。


PM10:00,就寝。


9月1日(土)ブハラ〜ヒヴァ


AM6:00、起床。

AM7:00、朝食。昨日と同じメニュー。少々多めだが、全部平らげる。

AM8:00、出発。今日は、ヒヴァへ約500kmの移動日だ。


AM10:00砂漠の吹きさらしの中で、トイレ休憩。例によって、強風の中で、風上に立つには、トラック・バスの方を向いて、放尿したいのだが、そうも出来ないので、斜め45の方角へ飛ばす。飛ばす勢いより、風の方が強いので、半分は自分の方に返ってくる。こういう時は、しゃがんでする方が、被害は少ないかも知れない。


キジルクム砂漠で、トイレ休憩(ウズベキスタン)


AM12:20、昼食。ずっとキジルクム砂漠の中の1本道を走ってきて、周りは地平線の彼方まで、何もないのだが、トラック・バスが留まった所には、奇跡的に一軒の小さな店が建っていた。中を覗くと、昼食に食べられそうな、サムサが置いてある。


私は、サムサを1個買って(2500ソム)、持参のインスタントラーメンに、熱湯を注いでもらった。この小さな店で、サムサや、コーラ、水が、飛ぶように売れ、店主は大忙しであった。


食後、トイレがあるかと聞くと、道路の向かい側を指さす。そこには、砂漠の真ん中とは思えないような、真新しいトイレが立っていた。使用料の1000ソムを支払って用を足した。こんな所にトイレがあるのは、とても有り難かった。


AM12:50、出発。トラック・バスは、晴天、強風の中、砂漠の1本道をひた走っている。我々は、今は町になっているが、昔のオアシスからオアシスへと移動している。昔の旅人は、このシルクロードを、どうやって進んで行ったのだろうか、と考えるだけで途方に暮れる。


大がかりなラクダ隊、キャラバンを編成して歩いている姿をイメージするが、その過酷さは想像を絶する物であったろう。この砂漠の踏破もそうだが、既に越えてきた、パミール・ハイウェイ等も、想像するだけで、遠い夢の中に入っていくような感じである。


「月の砂漠をはるばると、旅のラクダが行きました」の歌を思い浮かべる。現代においては、トラック・バスが有効だが、トラック・バスのない時代は、やはりラクダが唯一の交通手段であったのだろう。またラクダだからこそ、広大な砂漠の海を航海できたのであろう。


当時は現在とは、時間の観念も大きく異なっていたろう。例えば、現在、車でなら1週間で行く道のりを、昔は1年を掛けて移動することが当たり前であったろうから、キャラバン隊は、最初からその計画で、編成される。百頭からのラクダを編成し、弱って使えなくなったラクダは、途中で取り替える。


オーストラリアを縦断したときに知った話だが、何人もの冒険家が、何度も南のアデレードから、北のダーウィンまでの踏破を試みたが、悉く内陸の砂漠の中で行方不明になって、生還できなかった。


最初に成功した冒険家は、アラビアからラクダ隊を呼び寄せて、探検隊を編成した、スチュアートであった。砂漠の移動には、キャラバン隊が如何に有効であったかを物語っている。我々は忘れかけようとしているが、シルクロードには、キャラバン隊が必要条件だったのだ。


私は、この年になって、シルクロードの旅を敢行しているのだが、体力から考えて、徒歩や自転車では不可能だし、やはり、このトラック・バスによる旅を選択するしか無かったと思う。


車のクッションが悪いとか、リーダーの口のきき方が横柄だとか、不満はあるが、シルクロードを曲がりなりにも体験するには、このツアーを選んで良かったと思う自分が居る。


PM2:15、車窓から、一本の小さな川が見えた。そして、小さな水たまりや池が見えてきた。この辺りから、大地に緑が目に付くようになって来た。朝8時にブハラを出発してから、約6時間、ひたすら何もないキジルクム砂漠を走ってきた。ようやく、次のオアシスの町、ヒヴァが近くなってきたことを思わせる。


大地に緑が(ウズベキスタン)


ヒヴァは、アムダリヤ川の中洲に出来たオアシスだと言うが、高低差の少ない大地を流れる川は、少しの気候の変動で、その流れを変えることがある。現に、このアムダリヤ川もその昔は、今の流れと違っていた。それは、ヒヴァから遠く離れたところに昔のオアシスの町が、発見されたことにより、証明されたことでもある。

アムダリヤ川(ウズベキスタン)


王宮、モスク、キャラバンサライ(隊商宿泊所)などが残る旧市街、イチャン・カラは、1990年、世界文化遺産に登録された。中央アジアの諸都市の中で、最も完全な形で古い町並みを残していると言われ、観光産業の発展に力を注いでいる。


PM5:00ヒヴァのホテル(イスラームベック)に到着。ヒヴァの旧市街である城郭の中に、そのホテルはあった。今回の部屋割りは、二人部屋を当てがわれた。相棒は49歳のドイツ人(フーゴ)独身。


最初の頃、私に、鼾がうるさいと注文を付けていたが、近頃は言わなくなった。私が鼾をかかなくなったのか、彼が慣れてきたのか、それは分からない。ただ、彼の鼾も結構素晴らしいときがある。


PM6:00、外出。別のホテルで両替。キャンプがないと、夕食代、市内観光等、支出額はどうしても増える。US$50=391,000ソム。300,000ソムは、大きな紙幣でくれたが、91,000ソムの分は、1000ソム札でくれたので、91になった。


「もう少し大きいお札があるだろう」と言ったら、「いや、それしか有りません」と言う。「札入れに入らないよ」と言って愚痴っていたら、「札入れなら有りますよ。こちらが2ドル、こちらは手作りで7ドルです」と言う。


分厚い札束を渡した挙げ句に、札束入れを買わそうとする、その根性が気に入らず、買わなかった。結局、ビニール袋に入れて持ち歩いている。私の札束は1cm程の厚さだが、数日前、ジョンが両替したときは、10cm程の厚さになっており、苦笑しながら我々に披露していた。


こんな国こそ、デノミネーションを実施するべきであろう。多くの市民が、雑誌でも持ち歩くような格好で、裸のお札を持ち歩いている。

オタ・タルヴァサ・西門(ヒヴァ)

     
   
イスラーム・ホジャ・メドレセとミナレット(ヒヴァ)


PM7:00城郭の中を散策した後、夕食。スープ、パン、コーラ。23,000ソム。味は可でも不可でも無し。串焼きを注文している人も居たが、魚料理が美味しそうだった。


PM8:30、帰着。シャワータイム。ポメラ。

PM10:00、就寝。


9月2日(日)ヒヴァ


AM6:00、起床。ポメラ。

AM7:30、朝食。メロン、スイカ、ブドウ、スモモ、桃等、フルーツ満載のテーブルに感動!食後ポメラ。


相部屋のフーゴから、「何をそんなに書いているのか?」と聞かれて、「旅行日記だよ」と言うと「そんなに書くことがあるのか?」と言う。私は、「英語での会話が、あまり出来ないので、その分、書くことが多くなるのさ」と言うと、分かったような、分からないような怪訝な顔をしていた。


AM10:45、外出。今朝、日本語ガイドによる、シティ・ツアーを申し込んだが、担当者が不在と言うことで、実現しなかった。一人で歩こうと思い、城壁の中を歩いていると「日本語の本あります」と言う立て看板が目に入り、その店に入った。


城壁(ヒヴァ)

 

          

ジュマ・モスクとミナレット(ヒヴァ)

カルタ・ミノル(ヒヴァ)


母と娘(ヒヴァ)


店内に日本語の本は、殆ど無かったが、ウズベキスタンの地図を開いたり、途切れない店主の話を聞いている内に、つい話に乗ってしまい、廃墟になっている、都城跡(カラと言う)を見学に行くことになった。費用は丁度シティ・ツアーと同額であった。250,000ソル。


AM11:30、運転手と私だけで出発。途中、アムダリヤ川の橋のたもとで写真を撮る。ここは、ブハラからヒヴァに来るときに、通った橋である。流れの遅い、濁った水が橋の下を流れて行く。ウズベキスタンに入ると、殆ど高低差のない平地が多くなる。


          アムダリヤ川@(ウルゲンチ)

アムダリヤ川A(ウルゲンチ)


タジキスタンは、パミール高原を抱えた山ばかりの国。ウズベキスタンは、平地が多いが、砂漠地帯を抱えている。どちらも国土が豊かであるとは言い難い。


運転手は「2年前に若い大統領に代わってから、国が良くなってきた。それまでは、何も変わらなかったが。この道も大統領が来るというので、急遽整備されたものである」と言う。


AM12:30、「昼食を取ろうか」と言うことで、通りのレストランに立ち寄る。出発前の話では、ユルトで食事をするとか言っていたが、変わったのか?出てきた物も、シシカバブとは言っても、肉のすり身を丸めて焼いたもので、肉そのものではない。しかも、塩がきつい。


支払いの段になって、事前交渉で決めた4ドルを支払おうとすると、運転手は、50,000ソムのはずだ、と言い出す。私は、決めた金額に自信があったので、4ドルしか渡さなかった。


4ドルなら日本円に換算すると、450円ぐらいだが、50000ソムだと、750円ぐらいになる。観光業に携わっている連中は、いつもこうやって、どさくさに紛れて鞘を抜こうとする。誤魔化そうとして失敗した運転手さん、残念でした!


PM2:00アムダリヤ川は、アフガニスタンから始まり、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンと流れる国際河川で、最後はアラル海に注いでいた。しかし、最近は、アラル海に到達せずに干上がってしまい、その影響で、アラル海が急速に縮小している。


そのアムダリヤ川が、古代においては、ホレズム文化を生み出した。そして、人々は、川が流れを変える度に城を造り変えねばならなかった。古代のアムダリヤ川流域に存在していた、多数の都城(カラ)が発見されたのは、1940年代になってからである。いずれも砂漠の砂に、埋もれていたに違いない。


高低差の少ない平地において、水量が多いときは、少しの気象の変動や、砂丘の変化で、水系が変わってしまう。それを証明したのが、カラの発見である。発見されたカラの数は1000以上だと言うから、想像を絶する。今日、見て回ったのは、その中の次の2カ所である。


アヤズ・カラ:6、7世紀からの都城の跡。


       
アヤズ・カラ(キジルクム砂漠・ウズベキスタン)



      
アヤズ・カラ(キジルクム砂漠・ウズベキスタン)


2、トプラク・カラ:紀元前1世紀ないし紀元後5世紀のホレズム帝国のシャー・ウシュ朝が築いた首都とされている。


       
トプラク・カラ(キジルクム砂漠・ウズベキスタン)

帰途にアクシャ・コルに立ち寄った。


PM4:30、帰着。

PM5:00、家族と久しぶりのスカイプ。皆元気そうで何よりでした。

PM6:00、ポメラタイム。


PM9:00、シャワータイム。

PM
10:00
、就寝。フーゴの鼾が激しくて眠れない!


9月3日(月)ヒヴァ


AM6:20、起床。

AM7:30、ホテルで朝食。昨日と同様、果物が沢山出ていて、有り難い。


AM8:30、ポメラ。

AM11:00、散策。城壁の上200m程歩いていくと、行き止まりになっていた。そこに男性と、女性が座り込んで、何やら日本語で話している。挨拶して話しかけてみると、女性は、沖縄県・石垣島に在住。男性は、その女性の日本語ガイドであった。


城壁の上を歩く(ヒヴァ)


女性は「昨日石垣島を出発して、那覇、仁川、タシケント、と飛行機を乗り継いできて、先ほどヒヴァに到着したばかり。石垣島から三人で来る予定が、他の二人が事情によりキャンセルしたので、一人だけのツアーになりました。


職業は介護士ですが、今回は退職して来ました。石垣島には移住して20年になります。本土での仕事に疲れて石垣島に移り住みました。中央アジアへは、前から来たいと思っていたところに、ウズベキスタンのツアーが発売になったので、来ることが出来ました。ウズベキスタンには、9泊する予定です」と言う。


日本語ガイドの男性は、「日本での滞在が5年間の経験あり。今、タシケントの外国語学校で日本語を学習中。今日の仕事はアルバイトです」と言う。彼は彼女がウズベキスタンに居る間中、彼女に付き添ってガイドをして歩く。日本語が秀でているわけではないが、アルバイトとしては、十分な力を持っていると言えよう。


AM12:30、丁度お昼時になったので、ご一緒させてもらうことにした。一流のレストランらしく、予約客が次々と入ってきて、100席ほどのテーブルは、ほぼ満席状態だ。ウズベキスタン料理らしい物が、次々に出され、どれも美味しく食べることが出来、楽しい会話が出来た。45000ソム。少々高いがこれだけ吟味された物が食べられるなら、満足である。

高級レストラン(ヒヴァ)


PM2:30、ホテルに帰着。ポメラ。

PM4:00、昼寝。


PM6:00、昨夜から、急に冷気を感じるようになった。外出の時も、ジャンパーを羽織った方がいいかなと思う。


「ヒヴァの町は、外壁と内壁の二重の城壁で囲まれている」とガイドブックにあるが、この3日間、それをきちんと認識することがなかった。私は、そのことが気になって、受付に聞いてみた。すると地図を見ながら、「外壁は此処にあります」と言う。


早速確認に出かけたが、外壁の存在が確認できない。私は、内壁を出たところで、青年に訪ねた。「外壁は何処にありますか?」青年は「有るには有るが、一部しか残ってはいません」と言って、そこへ私を案内してくれた。


成る程、これでは私が二重の壁を認識できずに、混乱していてもやむを得なかったな、と納得した次第。ホテルの受付も、「もう少し丁寧に教えてくれれば良いのに」とも思った。


外壁(ディシャン・カラ)の全長は約6kmの城壁で、内壁の全長は、2250mである。内壁の中は、「イチャン・カラ」と呼ばれる小さな町になっており、その全体が博物館となっていて、ユネスコの世界文化遺産として保存されている。


この小さな町の中に、例によって、モスクとマドラサが密集して立てられている。それぞれの建築には、それぞれの意義や歴史があるのだが、此処では煩雑を避けるために、イチイチについては、説明しない。


ただ、アムダリヤ川の水系が変わった為に、ヒヴァに都が移され、17世紀にはホレズム帝国の政治、経済、宗教の中心地となった事は、押さえておきたい。現在のヒヴァは、ホレズム州の州都、ウルゲンチから南西に約35kmの、アムダリヤ川下流のオアシスの町である。


PM7:30、買い物に、スーパーへ。バナナ3本、ビスケット1袋。20,000ソム。明日は国境を越えて、トルクメニスタンへ入り、キャンプになる。


PM8:00、夕食。少し青いバナナ、甘みの少ないリンゴ、オニオンのピクルス。昼食に美味しく頂いたから、夕食は節約しよう。

PM9:00、シャワータイム。

PM9:30、就寝。

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